お釈迦さま(おしゃかさま)

生没年に関して諸説ありますが、日本では紀元前463年?383年とする説が有力です。古代インド中部に存在した釈迦族の王子さまで、父は浄飯王(じょうぼんおう)、母は摩耶夫人(まやぶにん)といいます。“ゴータマ”と名付けられた王子は、人生の苦悩を見据え、29歳の時、王子の地位を捨て出家されました。出家後、いろいろな教えを説く師匠を訪ねてまわられましたが、満足されず六年間にわたる苦行をされました。つらい苦行は6年間続きましたが、かえって肉体と精神を損ねるだけであると自覚し、その苦行を放棄されました。
山林から下りられたお釈迦さまは、尼連禅河(にれんぜんが)で身を清め、村の少女スジャータから差し出された乳粥(ちちがゆ)を食べ、体力を回復されました。そして菩提樹の下に座って瞑想(めいそう)し、ついにお悟りを開かれたのです。35歳の頃といわれ、その場所を“ブッダガヤ”と呼ぶようになりました。お悟りを開かれた後、鹿野苑(ろくやおん)で共に修行をした5人の出家者に対し、初めて説法をされました。以後45年間、各地をまわって教えを伝え、80歳でクシナガラの沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで身を横たえて入滅されました。

七高僧(しちこうそう)

龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ 150年-250年頃)七高僧の第1祖

南インドの出身で、当時のインドの思想を学んだ後、北インドに赴いて仏教を学ばれ、すべてが救われていく大乗仏教の基礎を固められました。日本に渡った大乗仏教の多くは、龍樹菩薩を祖として尊敬されています。龍樹菩薩は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』「易行品(いぎょうぼん)」を著し、阿弥陀さまのみ教えをお伝え下さいました。

天親菩薩(てんじんぼさつ 400年?480年頃)七高僧の第2祖

天親菩薩は、世親菩薩ともよばれています。中期仏教の大学者です。はじめ伝統的な部派仏教の説一切有部や経量部に学び、『倶舎論(くしゃろん)』を記します。その後、兄無着の勧めで大乗仏教に帰依し、瑜伽行唯識学派の根底を築きました。『唯識二十論』『唯識三十頌』『十地経論』『浄土論』等多くの著書があり、“千部の論師”といわれています。その中、『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』をあらわし、阿弥陀さまへ帰依しお浄土への道を歩まれました。

曇鸞大師(どんらんだいし 476年?542年頃)七高僧の第3祖

出生地は雁門(がんもん、現在の山西省)といわれています。四論(龍樹菩薩が著された『中論』『十二門論』『大智度論』と、提婆菩薩が著された『百論』のこと)に精通し、北インドの菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)から『観無量寿経』(『浄土論』など諸説があります)を授かり、以後浄土教に専心され、浄土教の教えを体系づけられました。書物では、天親菩薩の『浄土論』を注釈した『往生論註』を著し、阿弥陀さまの“他力”によるお救いをお伝え下さいました。

道綽禅師(どうしゃくぜんじ 562年?645年)七高僧の第4祖

はじめは『涅槃経』の大学者として大成し、名を知られていました。48歳の頃、石壁玄中寺(せきへきげんちゅうじ)に残る曇鸞大師の碑文を見て、浄土教に回心されました。書物では、『安楽集』を著して、仏教を聖道門(しょうどうもん)と浄土門(じょうどもん)とにわけ、末法の世に生きる凡夫には、浄土門の念仏こそが救いの道であると示されました。

善導大師(ぜんどうだいし 613年?681年)七高僧の第5祖

“光明寺の和尚(かしょう)”“終南大師(しゅうなんだいし)”などとも呼ばれています。少年のころ、密州の明勝法師に就いて出家され、『観無量寿経』を学んで十六観法を修じ、後に終南山の悟真寺でご修行されました。二十代の頃、石壁玄中寺の道綽禅師に師事し、称名念仏に帰依されました。師の寂後、長安郊外の終南山悟真寺や長安の光明寺の浄土院でお念仏を広められました。当時、『観無量寿経』に基づく、観仏を重視し、お念仏の価値を認めない学説が盛んでした。そこで善導大師は『観無量寿経疏』(観経疏)四巻を著し、一心にもっぱら阿弥陀さまの名号を称える口称の念仏を勧められました。
源信僧都(942年?1017年)七高僧の第6祖

9歳のとき、比叡山に登り良源(りょうげん、慈慧大師・元三大師とも)に師事し、13歳のとき得度受戒されたといわれます。天台宗の教学を究められたのですが、名声を嫌って横川(よかわ)に隠棲(いんせい)されました。その横川恵心院にあって修行と著述に従事されたので“横川僧都(よかわのそうず)”“恵心僧都(えしんそうず)”とも称されました。書物では、『往生要集』を著し、極重の悪人はただお念仏によって阿弥陀さまのお救いにあずかると述べられました。

法然上人(ほうねんしょうにん 1133年?1212年)七高僧の第7祖

父は美作国(みまさかのくに)久米の押領使(おうりょうし)漆間時国(うるまときくに)です。夜討で父を亡くし、その父の遺誡によりあだ討ちをやめて出家し、15歳で比叡山に登って皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)らに師事されました。18歳の時、西塔の黒谷に隠棲していた叡空(えいくう)の弟子となり、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と名を改められます。その後、25年間、京都のみならず南都(奈良)などの学僧をも歴訪し研鑽に励まれました。
承安5年(1175)43歳の頃、黒谷の経蔵で善導大師の『観経疏』にある「一心専念弥陀名号」の文によって専修念仏に帰されました。その後、比叡山を下り東山吉水に移り、あらゆる階層の人々に専修念仏の教えを広められました。文治2年(1186)に大原で浄土の教えについて顕真と問答し、これを契機に社会的に知られるようになります。建久9年(1198)66歳の時、九条兼実の懇請に応じて『選択本願念仏集』(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう、選択集)が撰述されます。
おりしも平安から鎌倉への移行期にと移り変わる乱世であり、末法観が流行したこともあって専修念仏の教えは広く受け入れられました。しかし、法然門下の積極的な活動は、在来諸宗の反発を招き、延暦寺の衆徒や興福寺により朝廷への訴状が出されました。建永元年(1206)に念仏停止の宣旨が下され、門人2人が処刑され、親鸞聖人を含む7人の弟子が流罪に処せられました。法然上人自身も、承元元年(1207)3月、土佐(実際には讃岐)に流罪となります。同年12月に赦免され、建暦元年(1211)に帰京を許され、翌年1月25日に京でご往生なされました。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)

藤原氏に連なる日野有範(ひのありのり)のお子さまとして誕生されました。9歳で出家し比叡山で学なばれました。比叡山時代の動静は明らかでないのですが、堂僧(どうそう)として常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で不断念仏(ふだんねんぶつ)を修行されたといわれます。比叡山で20年間勉学・修行に励まれたのですが、心の平安を得ることはできなかったようです。
そして聖人29歳の時、六角堂に篭もり救世観音(くぜかんのん)の夢告をうけて、比叡山を降りる決心を固め、吉水(よしみず)の法然上人を訪ね、その教えに自らの救いの道を見いだし、本願に帰依されたのです。弥陀の本願を喜ばれ、元久2年(1205)には一般には非公開であった『選択集』の書写と、法然上人の真影を図画することを許されるほど頭角をあらわしました。
建永2年(1207)の念仏弾圧によって、法然上人や同輩数名とともに流罪を受け越後に流されます。建暦元年(1211)の11月には流罪を許されたものの、翌年1月に法然上人はご往生され、帰京を断念されたようです。かわりに、お弟子の請いにより関東に赴かれ、貴賤の区別無く念仏の教えを広められました。
その後、年代は不明ですが京都に帰られます。一説には、『教行信証』著述の資料を得るためともいわれています。そして晩年は著作に専念され、門弟へ多くの手紙などを送り教化を続けられました。弘長2年(1262)11月28日(旧暦、新暦は1月16日)90歳でご往生なされました。