白骨の御文章は、葬儀の時によく読まれる文章なのですが、

「朝は元気な人でも、夕方には死んでしまう」

という命のはかなさ、移ろいゆく様が書かれています。
とても深く、率直な言葉で書かれています。

この御文章のテーマと生れた経緯

よく葬儀のときに、読まれるものとして、「白骨の御文章」というものがあります。
(全文は記事の下に書いておきます。)

この文は、「人生のはかなさ」がテーマになっています。

朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

朝は元気に話をしていた人が、夜には亡くなってしまっている。
そのような人の命のはかなさ、移ろいやすさを読んだものです。

この御文は、もともと蓮如上人(本願寺8代門主)が弔辞として読まれたと言われています。(諸説あります。)

蓮如上人が75歳のとき、山科の安祥寺村で、村人数名が3日の内に次々と急死するという出来事がありました。まず青木民部という浪人夫妻の一人娘が急死しました。結婚直前の17歳でした。そしてその両親が次々に急死し、さらに山科御坊の土地を寄進した地頭の海老名五郎左衛門の17歳の娘も急死しました。

わずか数日の間に、村の若者とその家族が次々に亡くなったことは、蓮如上人もたいそう驚かれたと同時に、無常ということを実感されたようです。無常と言うのは、世の中のあらゆる物事は、常に変化しており同じ状態にはとどまらない(「常」は「無い」)ということです。

そして、この出来事の弔辞として書かれたのが、この白骨の御文章でした。

おおよそはかなきものはこの世の始中終しちゅうじゅう、まぼろしのごとくなる一期いちごなり。されば、いまだ万歳まんざい人身にんじんを受けたりということをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体ぎょうたいをたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしずくすゑの露よりもしげしといえり。

大意
人の一生はまことにはなかく、夢、幻のようである。今に至るまで、人が一万年の寿命をうけたということは聞いたことがない。一生はすぐにすぎてしまう。だれが百年の命を保っただろう。自分が先か、他の人が先か、今日か、明日か、それを知ることは出来ない。人の命の終りゆく様子は、まさに草の根の本や、葉末に宿る雫が、先を争うように消え去るようなものである。

台風などの自然災害のニュースを見ているといつも思いますが、亡くなった方は、まさか自分が数時間後には死んでいるなんて思ってなかったと思います。

人は力強く生きていける反面、なんともろく、はかないのでしょうか。
明日も必ず生きているという保証はどこにも無いのです。

だからこそ、この御文では、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」と勧めています。「だれもが後生の一大事に早く気が付いて、阿弥陀様を深く頼みとして、念仏を申す身となることが大切です」と勧めるのです。

後生の一大事とは

「後生」とは、死んだ後の行き先のことで、「一大事」とは、もっとも重要なことです。つまり、自分が死んだ後、苦しみの世界(六道)に行かずに、ちゃんとお浄土へ行くという人生における、重要事項のことです。

そういった、死後どうなるのかという大問題は、先送りにしないで、いまここで解決しなければならないというお心が込められています。

本願寺24代門主・大谷光真氏は、

「後生の一大事」は日常生活を超えたところにあるいのちの問題を、私たちに突きつけた言葉です。私たちは死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、地獄へ落ちるのか、極楽浄土に往(ゆ)くのか。これを解決せずして、この世に生れてきた意味はないということです。
大谷光真『朝には紅顔ありて』(角川書店 平成15年)

と述べています。

念仏を申す身となる

この白骨の御文章では、そのような問題は、自分ではどうにも出来ない重要なことだからこそ、阿弥陀様におまかせしてお念仏しましょうと勧めてくださいます。阿弥陀様は、何があっても決して捨てることはなく、寿命の長さや、亡くなり方など、何も関係なく平等に すくって くださいます。いつでもどこでも、見守りついていてくださいます。その様な仏様とのご縁を、亡くなった方が結んでくださるのです。

ですので、葬儀や法事を一つの縁として、仏法に出遇うことがとても大切だということです。それは、亡くなった方の死を無駄にしないことであり、亡くなった方が亡くなった後の世界に生きている道でもあるのです。(→ 還相回向

全文 白骨の御文章(『御文章』「五帖」)

それ、人間の浮生ふしょうなる相をつらつらかんずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終しちゅうじゅう、まぼろしのごとくなる一期いちごなり。されば、いまだ万歳まんざい人身にんじんを受けたりということをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体ぎょうたいをたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしずくすゑの露よりもしげしといえり。さればあしたには紅顔こうがんありて夕べには白骨はっこつとなれる身なり。すでに無常むじょうの風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李とうりのよそおいを失ひぬるときは、六親眷属ろくしんけんぞくあつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半よわの煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。

あはれというもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは、老少不定ろうしょうふじょうのさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

浄土真宗教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、1988年)pp.1203-1204

大意
人間の一生のありさまを静かに考えてみると、人の一生はまことにはなかく、夢、幻のようである。
今に至るまで、人が一万年の寿命をうけたということは聞いたことがない。一生はすぐにすぎてしまう。だれた百年の命を保っただろう。自分が先か、他の人が先か、今日か、明日か、それを知ることは出来ない。人の命の終りゆく様子は、まさに草の根の本や、葉末に宿る雫が、先を争うように消え去るようなものである。と言われている。

このように、朝には元気にいた人であっても、夕暮れには白骨となってしまう身である。ひとたび無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまち閉じ、ひとたび息が絶えたならば、若く元気だった顔もむなしく変わり、美しいありさまを失ってしまう。そうなれば、家族や親戚がいくら嘆き悲しんでも、どうすることも出来ない。

そうかといって、遺体を野外に送り火葬すれば、後には白骨が残るのみである。哀れなことといっても、その深い悲しみをはらすことは出来ない。

人の命のはかなさは年齢を問わない。だからこそ、年齢に関わらず、誰もが一時も早く後生の一大事に気が付いて、阿弥陀仏を深く頼みとして、念仏を申す身となることが大切である。

参考文献

大谷光真『朝には紅顔ありて』(角川書店、平成15年)
稲城選惠『わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば』(法蔵館、1987年)
天岸淨圓『御文章ひらがな版を読む』(法蔵館、2012年)
浄土真宗教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、1988年)