浄土真宗の教えとはどういったものなのでしょうか。
このページでは、出来るだけ簡単に浄土真宗の全体像を説明できればと思います。

教えの要旨

浄土真宗には「教章」というものがあります。これは、2008年に当時のご門主により制定されたもので、いわば、浄土真宗の要旨ともいえるものです。その際、ご門主は

この「教章」は、わが宗門に集う方々に、ぜひ心得て頂きたい浄土真宗の要旨であるとともに、新たにご縁のできた方に、み教えを理解していただくための手引きでもあります。

とお示しになられました。

ここでは、その内容を少し見ていきましょう。

こちらは、本願寺が発表する、浄土真宗の教章(私の歩む道)の引用です。

阿弥陀如来あみだにょらい本願力 ほんがんりき によって 信心しんじんをめぐまれ、 念仏ねんぶつもう人生じんせいあゆみ、 このえんきるとき 浄土じょうどまれて ぶつとなり、 まよいの かえって 人々ひとびと教化きょうけする。

非常によくまとまっているのですが、専門用語が多く、いまいちピンと来ないかもしれません。

浄土真宗の教えとは?

「南無阿弥陀仏」という、お念仏と共に生きる私たちの御本尊様は阿弥陀如来様です。ですので、浄土真宗の教えは「阿弥陀如来(あみだにょらい)様のはたらき」についての教えと言えます。私たちは、命が終わったそのとき、阿弥陀様のはたらきによって浄土に生まれるのです。それは言ってみれば引越しのようなもので、住む場所が変わるのです。この世での命は終わりますが、阿弥陀様の国に生きることになるのです。そしてお浄土に往(ゆ)くと、阿弥陀様のはたらきにより、阿弥陀様と同じ悟りをいただき、菩薩様と同じ姿となり、阿弥陀様と共に縁のあった方々が仏縁に出遇えるように活動するのです。

これが、浄土真宗の教えの概要です。

ここからは、もう少しだけ詳しく、阿弥陀様について見ていきましょう。

阿弥陀様とはどの様な仏様なのでしょうか?

阿弥陀様は、全ての人を必ず「すくう」という願いを立て、はたらき続けて下さっている仏様です。そして、この願いを「本願」といい、そのはたらきを「本願力」といいます。

何からすくってくださるのでしょうか?

それは、苦しみ=輪廻(りんね)からです。
人は、死後、生前のあり方に見合った世界に生まれます。

人は煩悩を持っています。この煩悩は、誤った判断や行動を生みます。それらは誤った結果を生みます。この生前の行動により、来世の行き先が決まるのです。その世界とは、「地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界」の6つの世界のことです。

これらの世界を生まれ変わり死に変わり、ぐるぐると巡ることを「六道輪廻」と言います。これらの世界はそれぞれに大きな苦しみがあります。従いまして、現世で亡くなり、来世に生まれ変わったとしても、また何らかの苦しみの世界に生れるのが普通なのです。その苦しみの循環から逃れる手段が「煩悩を捨てる」ことであり、「悟りを得る」ことです。

自力で煩悩を捨てきれるのか?

悟りを得るというのは、つまり「煩悩がない状態」になることです。煩悩を簡単に言うと、「自分中心の考え」となります。つまり、悟りとは、自分勝手な考えが無くなり、悩みも完全に無くなった状態とも言うことが出来ます。

とは言いましても、そのような状態になるのは、なかなか出来るものではありません。どんなに精神修行をしてみても、歳をとり、病にかかり、死を意識すると心が動くものです。

実際、親鸞聖人はこのための厳しい修行を20年間行ったと言われています。そして最終的に、「自分は悟りに近づくどころか、遠のいてしまっている。」「煩悩を捨てることは困難である。」と実感されました。

それだけ、悟りへの行は長く険しい道のりなのです。

そこでそのような人間の姿を見抜き、悲しんでくださったのが阿弥陀様です。
先ほども申し上げましたように、阿弥陀様は、全ての人を必ず「すくう」という願いを立て、はたらき続けて下さっている仏様です。つまり、煩悩を捨てきれない人であっても、「すべて」すくうと言ってくださる仏様なのです。

すくわれる ために すべきことは?

では、どうすればすくってくださるのでしょうか。それは、ただお任せすればいいのです。そのために、「私の力」であれこれする必要はないのです。もっと言えば、自分の力で何か悟りに役立つことは出来ないものなのです。ですので、ただただ、阿弥陀様のはたらきを疑うことなく、お任せすればいいのです。この疑うことをしなくなった状態を「ご信心をいただく」と表現されます。

どの様にすくってくださるのか?

阿弥陀様は、人がこの世での命が尽きた瞬間、阿弥陀様の国である「浄土」へと生れさせてくださるのです。そして、人々に仏縁を持つようにと はたきかけて くださいます。

どのように はたきかけて くださるのでしょうか?

よく 浄土真宗では「お育て」という言葉が使われます。これは今までお念仏と関わりの無かった人が、お念仏と縁が出来ることを言います。

これまで仏教とご縁もなかった方でも、お盆や法事という機会を通して「南無阿弥陀仏」と称ることがあると思います。逆に、小さな頃から家の習慣で何となく「南無阿弥陀仏」と称えている方もおられると思います。仏教の勉強をするうちに称(とな)えるようになった方もおられるでしょう。
ですが、考えてみれば不思議なもので、何もないところから「自分だけ」の意思で南無阿弥陀仏と称えるようになった方はいないのではないかと思います。つまり、そこには、何らかのはたらきがあったとも考えられるかもしれません。それこそが、阿弥陀様からのはたらきかけなのです。
仏法に疑いを持ち、教えに背を向けていた人や興味のなかった人が、ふとしたことをきっかけに、お念仏を申すようになるのはよくあることです。そこに阿弥陀様のはたらきを感じられないでしょうか。
そして一度阿弥陀様のはたらきに気が付けば、あとはただ死ぬその瞬間までお任せしておけばいいのです。

なぜ死の瞬間に来れるのか。

それでは、どうやって死の瞬間に来てくださるのでしょうか。
それは、初めて死の瞬間に来てくださるわけではなく、 今この瞬間も含め、生前からいつも、私たちを照らし、見守ってくださっているからです。そして命が尽きたとき、そっと、すくいとってくださるのです。

つまり、阿弥陀様は、「いま」「ここに」いてくださる仏様なのです。私たちが悩んだとき、悲しいとき、落ち込んだとき、もう駄目だと思ったとき、後悔しているとき、絶望しているとき、その全てを受け入れてくださっているのです。辛いときにも寄り添い、悲しいときは一緒に悲しんでくださるのが阿弥陀様なのです。

仏様は決して、生前の行いを否定しません。なぜなら、人間は煩悩によって正しい判断が出来ないからです。それを良くご存知なのです。今世での辛い現実は、人の煩悩によるものなのです。その全てを分かって、必ずすくうと仰ってくださっているのです。そして人間に「私にまかせなさい」と、ずっとずっと呼びかけ続けてくださっているのです。

もしも阿弥陀様がいなかったら。

人間は、煩悩によって正しい行いを出来なくなっています。先ほど申し上げましたように、人間は生前の行動により、来世の行き先が決まるのです。それを思うと、普段から、自分中心に物事を考え行動してしまう私たちは、一体どこに行ってしまうのでしょうか。

親鸞様のお言葉をまとめた「歎異抄」という書物の中に、「地獄こそが私の住む場所である」という内容があります。つまり親鸞様は、もしも阿弥陀様がおられなかったら、自分の行く先は地獄である、とまで確信されていたのです。それは、先ほど申し上げました、ご自身の長い修行体験から来るものなのでしょう。親鸞様は、決して捨てきることの出来ない、人間の煩悩を真正面から生涯見つめられたのです。

そのような人間を、間違いなく救うと決め、呼びかけてくださっているのが阿弥陀様なのです。

お念仏は阿弥陀様

そして、この呼びかけは、「南無阿弥陀仏」というお念仏となって、声になり、私たちに届いてくださっています。私たちが普段「南無阿弥陀仏」と称えるのは、私たちが称える前に、阿弥陀様からの呼びかけがあったからなのです。つまり、「南無阿弥陀仏」というお念仏は阿弥陀様そのものなのです。

浄土に生れた後

そうして、浄土に生れたあと、私たちは、阿弥陀様のはたらきにより、阿弥陀様と同じ悟りをいただきます。そして姿は、菩薩様の姿となり、阿弥陀様とともに縁のあった方々を見守り、仏縁に遇わせ救うという活動をします。それは菩薩様たちにとっての遊行、喜びなのです。

このように、私たちは、生前からもずっと阿弥陀様に見守られ続け、命が尽きたとき、お浄土に生れさせていただき、悟りを頂き、縁のあった人々を見守るのです。

以上が、浄土真宗の教えの大枠です。
今後、もう少し詳しく掘り下げた内容を追加していければと思っています。