人間について「悪人であり、尊い存在」
浄土真宗では、「人間」をどのように捉えているのでしょうか。

これには、2種類の真逆の捉え方がされています。

まず、愚かで、罪深く、煩悩から離れられない、悪人であり、
同時に、阿弥陀様の はたらき により すくわれ、仏になれる尊い存在

浄土真宗では、人間をこの様に見ています。
どういった意味なのでしょうか。

悪人としての人間

浄土真宗での人間の捉え方とは、つまり、宗祖である親鸞聖人の人間の捉え方となるわけですが、親鸞聖人はご自身の捉え方として「極重の悪人」「煩悩具足の凡夫」、また正信偈にもあるように「邪見憍慢の悪衆生」であったり、歎異抄では「地獄は一定すみかぞかし」と表現されています。

「凡夫」とは浄土真宗を勉強すると必ず出てくる言葉ですが、「聖者」に対する言葉で、煩悩に束縛され、迷いから抜け出せずにいる者のことです。つまり、人間とは悪人であり、煩悩から離れられない存在であり、物事を正しく見れず、おごり高ぶる存在で、地獄こそが住みかと言える存在として捉えられているのです。

なぜこんなに自己否定するような捉え方なのか?

それは、価値基準の違いだと思われます。私たちの多くは、日本の法律、倫理観に基づいて、良い悪いを判断することが多いと思います。ですが、親鸞聖人は、生涯にわたり「生死出づべき道」、つまり「輪廻から抜け出す道」を探し続けたお方です。仏教では、生前の生き方、心の在り方により、次に生まれる先が決まるといわれます。その世界は大きく6つあり、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の6つです。そしてこれらの世界には、それぞれ非常に大きな苦しみがあります。人間はこれらの世界を生れ変わり、死に変わり、循環すると言うのです。これを六道輪廻と言いますが、この循環から抜け出す方法が、「悟りを得る」ということなのです。親鸞聖人はこの道を探し続けられたのでした。

ご存知の方もおられるかもしれませんが、親鸞聖人は、9歳の時に出家なさり、29歳まで比叡山にこもり、非常に厳しい行をなさいました。そこで、20年間の行を通し感じたことは、「煩悩成就の凡夫」という言葉に現れるように、どれだけ努力しても、煩悩を落としきることは出来ないという実感でした。ですので、仏様・仏法に対して己をみたとき、あのような自己否定的な捉え方をなさったのではないでしょうか。この凡夫の様相を『一念多念文意』という著書のなかでこのように表現されています。

「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」

現代語訳
「凡夫」というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく

親鸞聖人にとって、人間の悪性=煩悩とは、どうにもならない人間の性根と捉えたのでしょう。ですがこれは、親鸞聖人だけの話ではないと思います。私も、これを読んでいるあなたも、煩悩が常に付きまとっているのではないでしょうか。煩悩とは噛み砕いていえば、「自分中心の考え」とも言えます。これを完全になくすことは、非常に難しいでしょう。どんなに人のためと考えていても、どこかで、自分のことを考えている。これはある意味、人としてはごくごく普通の当たり前のことです。このごく当たり前の人間こそが、親鸞聖人の言われた、「悪人」なのです。ですので、悪人とは、親鸞聖人であり、私であり、あなたであると言えるのです。そして、その普通の人がすくわれる道を示したのが、親鸞聖人が追及された、浄土真宗の教えなのです。

これはもちろん、煩悩を肯定するという話ではありません。親鸞聖人もそのことについて、「毒を消す薬があるからと言って、好んで毒を飲むものではない」(「くすりあればとて、毒をこのむべからず」(『御消息』))

という内容のことを言っています。煩悩は、「煩悩成就の凡夫」と表現されたように、本当は離れたいけれど、離れることの出来ない、洗っても洗い落すことの出来ない、人間の心根なのです。

尊い存在としての人間

弥勒菩薩と同じ

親鸞聖人は、人間のことを愚かな凡夫としてしか捉えてなかったのでしょうか。実は親鸞聖人は、私たち人間を弥勒菩薩と同じであると捉えていました。弥勒菩薩はお名前はご存知の方も多いと思いますが、菩薩の中でも一番高い位まで登っておられる菩薩様です。現在は、兜率天(とそつてん)という世界で最後の修行中で、次の生まれ変わりのとき、仏となると言われています。その弥勒菩薩と、煩悩まみれの私たち(凡夫)と、一体何が同じなのでしょうか。

次の生では仏になる

皆さんは仏教の目的というのをご存知でしょうか。仏教の目的は煩悩を捨て、仏様になることです。ではなぜ仏様になる必要があるのでしょうか。それは先ほど申し上げましたように、人は六道の中を生まれ変わり、死に変わり循環しているのです。その循環から抜け出す方法というのが、煩悩を捨てること。つまり仏様になることなのです。

私たち人間(凡夫・ぼんぶ)の場合

それでは、人間はどのようにすれば仏様になることができるのでしょうか。一つには自分の力、「自力」の修行によってこの世で悟りを開く道があります。それに対して、阿弥陀仏の はたらき である「他力」によって、その浄土に往生させて頂き、悟りを頂くという道に分かれます。浄土真宗では阿弥陀仏の はたらき により悟りを頂きますので後者となります。

ここで大切なことは阿弥陀様の はたらき により悟りを頂くということです。以前、教聖の解説の中でも述べましたが、阿弥陀様の教えと共に生きる私たちは、この世の縁が尽きるとき、阿弥陀様の はたらき により 阿弥陀様の国である、お浄土へと往(ゆ)きます。 そしてその瞬間に、仏様と同じ 悟りを頂くのです。つまり死んだ次の生では、仏様になるのです。

弥勒菩薩の場合

先ほど弥勒様は、兜率天において最後の修行をなさっていると申し上げました。つまり弥勒様は、次に生まれ変わるとき仏様となるのです。ではそれは、いつになるのでしょうか。弥勒様の修行の時間は非常に長い時間を要します。我々人間の時間で言えば56億7千万年かかると言われています。 この数字の意味には諸説がありますが、途方もなく長い時間を要するということなのです。つまり弥勒様は56億7千万年という、途方もない時間を経て、仏様としてお生まれになると言われているのです。仏様になるというのは、そのくらい大変なことなのです。

このように、悟りに至る時間と過程は異なりますが、両者ともに次の生では悟りを得て仏さまになる、という点では、共通しているのが分かります。この点において、親鸞聖人は「弥勒におなじ位なれば」と表現されたのです。

尊い存在としての凡夫

このように念仏者は仏様ではないのですが、将来的には仏様と同じ智慧を頂きます。ですので、ただの凡夫ではなくて、浄土に生まれることを約束されている「一生補処の菩薩」という非常に荘厳な存在として表現されています。「一生補処(いっしょうふしょ)」とは、菩薩の最高位のことで、次の生まれ変わりで、仏となることが出来る位のことです。ですので、弥勒菩薩も「一生補処」の位にあるのです。つまり、念仏者である凡夫は、ただの煩悩まみれの愚かな存在というだけではなく、「一生補処」という非常に尊い存在とも言えるのです。このことは、三部経の一つである『観無量寿経』の中で、「人中の分陀利華なり」と念仏者を表現しています。「分陀利華(ふんだりけ)」とは「白蓮華(びゃくれんげ)」のことで、仏様の徳をたたえる言葉です。ですので親鸞聖人は、他の念仏者と接する時の態度としては互いに深い尊敬の思いを持ち接するべきであると言われるのです。つまり決して同行を軽視するのではなく同じ道を歩む友として親密であれとすすめられたのです。

まとめ・2つの人間観

はじめに、親鸞聖人は人間を「愚かで、罪深く、煩悩から離れられない、悪人」と捉えたと申し上げましたが、ここに来て「如来と等しい」であるとか「弥勒菩薩と同じ」といったように非常に尊く、誇りの高い存在であるという人間観に変わった事にお気づきになるかもしれません。

このように、親鸞聖人は人間を愚かで、罪深く、煩悩から離れられない、悪人であると捉えましたが、同時に、次の生では仏になるという点で、弥勒菩薩と同じである、非常に尊い存在であるともと捉えました。