永代経

「永代経」という言葉を聞くことがありますが、
そもそもどのような意味なのでしょうか。


永代経

永代経とは、故人の命日ごとに永代に経を読むことを言います。
ですが、ただ読むというわけではありません。

お経を読むことで仏縁を繋ぐのです。

いままであまり仏教に縁の無かった人が、
故人を縁として、仏法に触れる機会にも成り得るのです。
そしてその、法を聞く宗教空間としてお寺があります。

お寺という、非日常の空間を通し、
故人を縁として、自分だけではなく、後の世代も仏縁に出遇うことを願うこと。

このことが永代経の意義だと言えるでしょう。

そして、お寺を維持存続を通し、永代に経が読まれ法が伝わるという願いを持ち、
ある程度の懇志(お金)や仏具をお寺に納めるのが「永代経懇志」です。

(参照:仏事のイロハ 末本弘然著 本願寺出版社)

永代経法要

それでは、永代経法要とはどのようなものでしょうか。

「永代経」とは上でも説明したように、
永代(末永く)に経を読まれるという事なのです。

ですので、永代経法要とは、そのための法要ということになります。

つまり、故人をしのび、
「み教えが永代に伝わるように」とういう願いを持って勤められる法要です。


同時に「子や孫にわたってみ教えを聞く喜ぶこと」を願って勤める法要という事になります。

中国唐時代初期の僧で、浄土真宗で言う七高僧の一人、道綽禅師は、
その著『安楽集』の中でこのような言葉を残しています。

前(さき)に生れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ
この言葉は、親鸞聖人も、『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の終わりに引用されており、
意味は、

「前(まえ)に生れるものは後(あと)のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。
それは、数限りない迷いの人々が残らず救われるためである」
(現代語版聖典『教行信証』)
ということです。
仏教でも何でもそうですが、大切なことは、
先代から、私、私から後の世代へと伝わっています。
末永く経が読まれることで、後の代へも仏縁が続くものです。

そうして、末永く永代に子どもや孫の代やもっと後の代にまで、
仏法が届けばと思います。

永代供養

永代供養という言葉も耳にされたことがあるかもしれません。
もしかすると、上記2つの言葉よりも馴染みがあるかもしれませんね。

ですが一般的に、浄土真宗では永代供養とは表現しません。
供養とは、本来、敬いの心を持って奉仕することを言います。

ですが、現代の日本では、
追善供養という言葉と同義で使われていることが多いようです。
追善供養とは、死者のために善事を行うことを言います。

人は生きている間に、さまざまな行いをします。
いいこと、悪いこと、様々ですが、仏教的に「いいこと」とは、
成仏する、つまり浄土に往くのに役に立つことです。
そしてその善行が少ないと、また迷いの世界に生まれるとされています。
そこで、こちらの世界から善行を回し向けることが追善供養となります。

ですが、浄土真宗ではその考えはしていません。
というのも、人間はそもそも、極楽に自分の力で行けるほど善行を積める存在ではありません。
生きていれば、必ず煩悩に惑わされた行動をとってしまうものです。
それは、仕方のないことです。

阿弥陀様は、そんな人間を掬う(すくう)と言います。
不完全な人間が善を送るまでもないのです。

阿弥陀様の本願に出遇った人は、迷いの世界に再び生まれるわけではないのです。

再び生まれるのではなく、菩薩の姿(還相の菩薩)となり、
縁のあった人を見守り、導くためにこちらの世界にかえってきます。(還相回向)

ですので、浄土真宗では永代供養ではなく、永代経法要と表現されます。

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