如来という言葉の意味〜如より来たる仏さま〜

よく仏教の話を聞いていると、
「如来(にょらい)」という言葉が出てきます。

これは、簡単にいうと、仏様の別の呼び名です。
ですので、「仏様」は「如来様」と言えます。
浄土真宗では 阿弥陀「如来」様がご本尊ですね。

この「如来」をもう少しだけ詳しく見てみると、「如」より「来る」と書きます。
如とは、「悟り」[1]。のことですから、
「悟りの世界」から私たちの元へ来てくださっている存在ということです。

よく私は信心が薄いからとか、信じようと思っても雑念煩悩が多すぎて、という方もいます。ですが、如来という字をよくみると、仏様自身が、悟りから来てくださると書いてあります。

私たちの人生に、
向こうの方から飛び込んで来てくださるのが如来様なのです。

今まで生きてきた。
辛いこともあった。
後悔することもあった。

それでもあなたを
そんなあなたを一人にはしませんよ。

受け入れられる世界、救われる世界がもう用意されていますよ。
あなたももう、その光の中に包まれていますよ。

と語りかけてきておられるのです。

如より来る阿弥陀様

それは、お経の言葉としてもそうですし、お墓参りのときに思わず出る「南無阿弥陀仏」と言う「言葉」としてあらわれてきます。[2]

悟りそのものである仏様は、(人間とは次元が違いすぎて)
人間には、見ることも、想像することも、表現しきることもできない
と言われます。[3]

そんな本来は姿形も声もない、言葉にならない真実から、
仏様が言葉として現れてくださったのが、南無阿弥陀仏という言葉です。

少し前に、道を歩いていると、外国の観光客方に道を尋ねられました。周りには私しかおらず、なんでこんなところに観光客がと思いながらも、なんとか英語で答えようとしてました。ですが、途中で諦めて、日本語で「あっち」とか「こっち」と指差しながら、ちょうど紙とペンを持っていたので、簡単な地図を描いて説明しました。

一通り説明した後、また歩きながら、仏様もそうなんだろうなと思いました。
分からない私たちに、分かるように文字となり声となってくださっているのです。

母親が子供と話す時に目線を合わせるように、
私たちに寄り添いながら、
なんとか分からせたいと願っている、その究極の形が南無阿弥陀仏なのだろうと。

自分一人では、仏教には何の縁もなかったかもしれない。

それでも何かの縁が重なって、
お墓参りに行くようになり、お寺にお参りに行くようになる。
お盆やお彼岸の法要に参加するようになり、
「南無阿弥陀仏」と口からでる。

それはやはり、偶然ではなく、仏様と数知れないご先祖様の「あなたを慈しむ願い」でもあるのです。

お盆やお彼岸は、そのような仏様と出遇う機縁の一つとなるのです。


(1)

「如:梵語タタター(tathatā)の意訳。真如、一如のこと。」
「如来:梵語タターガタ(tathāgata)の意訳。真如より現れ来った者、あるいは真如を悟った者の意で、仏のこと。」


出典(如):『浄土真宗辞典』(本願寺出版社、二〇一三年)527頁
出典(如来):『浄土真宗辞典』(本願寺出版社、二〇一三年)531頁

※本文では「悟り」と意訳

(2)

弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり
(阿弥陀仏は、この一如よりかたちを現して、報身・応身・化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。)

親鸞聖人『顕浄土真実教行証文類
引用元:浄土真宗本願寺派総合研究所編『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』本願寺出版社、2004年 307頁
現代語訳:浄土真宗本願寺派総合研究所編『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』本願寺出版社、2000年 330頁

(3)

法身(ほっしん)はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。

親鸞聖人『唯信鈔文意
引用元:浄土真宗本願寺派総合研究所編『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』本願寺出版社、2004年 709–710頁

コメント Comments

コメント一覧

コメントはありません。

コメントする