親鸞聖人のご生涯 ~ 大まかな流れ ~
・親鸞聖人は9歳で僧侶になり、29歳まで比叡山で修行されました。
・その後、法然聖人と出会われ、浄土の教えに入られました。
・しかし、当時は浄土教の教えが政府には受け入れられず越後ヘと流罪となりました。
・その後、関東周辺で布教伝道を行いましたが、
・京都に戻られ、90歳でその生涯を終えられました。

それでは、ここからもう少し詳しく、親鸞聖人のご生涯を辿ってみたいと思います。

はじめに

親鸞聖人は生涯にわたり、何を求めたのか。

親鸞聖人の教えに触れるうえで、必ず知っておくべき前提があります。
それは、聖人は、「生死出づべき道」(悟りを得るための道)を求めたということです。

生死出づべき道とは、「生死の迷いから出ることの出来る道」です。

この「生死の迷い」とは、何か?

人は生れ変わり死に変わりを繰り返し、次の世界で待つ苦しみを経験します。その苦しみから抜け出す方法が、生死出づべき道なのです。
(参考:六道輪廻

そしてその、苦しみのサイクルから抜け出すことこそが、「悟りを開く」ことなのです。

つまり、悟りを開くことで、生と死のサイクル(六道輪廻)から抜け出すことこそ、聖人の求められた道なのです。

『大無量寿経』の「讃仏偈」には、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。とあり、ここからもそれが伺えます。

この聖人の立場を理解していないと、教えや生涯が理解しにくくなると思いますので、記憶にとどめておいてください。

親鸞聖人のご生涯

誕生

親鸞聖人は、承安3年(1173年)5月21日、京都南部の日野(現在の伏見区)という場所にお生まれになりました。幼名は若松麿(わかまつまろ)、父は日野有範(ありのり)、母は吉光女(きっこうにょ)、そして4人の弟がいたと言われています。

当時は、平家と源氏による政権争い、戦乱が長く続いており、さらには、自然災害、大火事、疫病、飢饉も次々とおこり、現代の我々には、とうてい想像し難い混乱期だったと言われています。

当時の世相を表すもので、このような記述も見られます。

近日、天下飢饉にして、餓死するものその数知らず、僧網有官の輩すら、その聞(きこ)へあり
『百練鈔』

そんな中、若松が8歳の頃、母・吉光女さまがお亡くなりになりました。(と伝えられています。)さらに、親鸞聖人の父上である有範さまは、出家し隠居してしまいます。不安極まりない社会情勢の中、少年は、両親と別れることになるのです。そして、若松は叔父・範綱(のりつな)のもと暮らします。

聖人がどの様な事情で出家なさったのかは定かではありませんが、困窮したお家の事情があったとも言われています。

その様な中、わずか9歳の少年を出家させる叔父・範綱(のりつな)さまの気持ちは、どのような気持ちだったのでしょうか。
わずか9歳の少年が出家した気持ちは、どのような気持ちだったのでしょうか。

若松さまは、青蓮院(しょうれんいん)の慈鎮和尚(じちんかしょう)のもと、出家をなさることになりました。そして叔父に連れられ、得度(出家のための儀式)を受けるために、京都の青蓮院を訪ねました。

ですが、その日はもう遅く、

慈鎮和尚は、「明日にしなさい」と言ったそうです。

そこで、若松さまは

明日ありと おもう心の あだ桜
夜半にあらしの ふかぬものかは

と歌いました。

「今日綺麗に咲き誇っている桜の花を 明日また見ようと思ったとしても、夜のあらしで、全て散ってしまうかもしれない。」

「明日」になんの保証があるのか。
聖人にとっての出家のタイミングは、どんなに夜遅くとも、「今」しかないと、そう感じられていたのでしょう。

この覚悟を感じ取り、和尚はすぐに得度の準備をはじめたとのことです。

出家~比叡山での修行

親鸞聖人の修行時代は、ほとんど資料が無く不明な部分が多いのですが、出家し、範宴(はんねん)と名乗った親鸞聖人は、京都の比叡山で9歳から29歳までの20年間を過ごされました。海抜840m、世俗とは切り離された世界です。一度山に登ると12年間は下山を許されず、肉体的にも精神的にも厳しい世界でした。その世界に9歳の少年が入っていったのです。

そこでは、読経、礼拝、回峰行、など厳しい行を行われたようです。この修行時代を記す、数少ない資料として親鸞聖人の奥様の恵信尼(えしんに)様のお手紙があります。

殿(聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて(『浄土真宗聖典 註釈版』P.814、『恵信尼消息』

とあることから、聖人は堂僧であったことが分かります。堂僧とは常行三昧という行を行う修行僧です。これは非常に厳しい修行で、90日間、小さなお堂の中で、阿弥陀仏像の周りを阿弥陀仏の名を称え、心に阿弥陀仏を念じながら歩き続けるというものです。この間の睡眠は、体を横にして眠ることは禁止されており、壁や手すりに寄りかかり眠るという過酷な行です。

その他、大満の行、つまり千日回峰行も行ったとも言われています。回峰行とは7年間かけ、草鞋(わらじ)に裸足で山道を廻る修行で、一日、七里半(30km)、後半では、二十一里(84km)を歩きます。そのうえ7年間の途中9日間は、食べることも、飲むことも、寝ることも、横になることも禁止され、明王堂にこもるという非常に過酷な行です。

こういった、まさに命懸けとも言える様々な行を20年間を通し、経験されたのでした。

その修行を経て、聖人が得たものもは何だったのでしょうか。

通常、仏教における行とは、悟りに向けて少しでも近づくことが目的です。
ところが親鸞聖人が厳しい行の末、感じたことは、悟りに近づくどころか離れてしまう感覚でした。
それは、全く成果がでなかったという絶望でした。

『歎異抄』には、
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(『浄土真宗聖典 註釈版』P.833、『歎異抄』「第二帖」

(どんな行も満足に行うことが出来ない私は、私の行くところは地獄しかない。)

とあります。

修行に励めば励むほど、煩悩を滅するどころか、自分の心の醜さが一層浮き彫りになったのでした。

村上速水氏は、このときの聖人の心情を

九歳のとき、「あの山にこそ」と期待をいだいて登山し、青春のいのちを燃やして挑んだ努力も、ついに何も実らなかったのです。挫折、絶望、無念やる方なさ。それはどんなにか悲しく、辛いことだったでしょう。ようやく登りつめた頂上は、思いもかけぬ断崖絶壁であろうとは。これが青春時代を賭けた範宴が、苦闘の末に報われた結果だった

と述べています。そして、そのことを浄土真宗の教えに触れる私たちは、深く肝に銘じておく必要があるとも述べています。

六角堂でのお示し

比叡山で絶望を味わい、なすすべのなくなった聖人は、聖徳太子の本地である救世観音にすくいを求めます。今後、自分はどうすればいいのか。何らかのお示しがあるかもしれない。その様な想いがあったのでしょう。聖人は、六角堂へ通うことにしました。

そして95日目の夜明け、ついに聖徳太子からの示現(夢告)がありました。

その言葉は定かではありませんが、その言葉をヒントに法然聖人を訪ねることになります。
ですが、当時の法然聖人は、仏教界では異端の存在として扱われていました。

法然聖人との出会い

当時の日本の仏教は、瞑想や学問など、時間にもお金にも余裕があり、文字も読めるような人にしか実践出来ないようなものでした。ところが、法然聖人は、「ただ念仏さえすれば、誰であっても、阿弥陀仏にすくわれる。出家者や在家者、男や女、誰であろうと浄土に生れることが出来る」(専修念仏)と説かれました。

確かに比叡山にもこのような教えはあるにはありましたが、意思の薄弱な者の行とされ、重要視されておらず、伝統的な比叡山の教えとは真逆の教えだったのです。

このように、法然聖人の教えと言うのは、親鸞聖人が、それまで20年間学んできた教えとは、全く異なる教えでした。また、親鸞聖人も「法然はおかしな教えを広める者」という噂はお聞きになっていたでしょうから、そこを訪ねなさいという聖徳太子の示現に対しては、大きなためらいがあったのではないでしょうか。

ですが、親鸞聖人には、もう他には道がありませんでした。
法然聖人のもとを訪ねました。

そこには、貴族から農民まで様々な身分の者がいました。親鸞聖人は、それから六角堂に通い詰めたのと同じように、毎日訪ね、ひたすら「生死出づべき道」を求め、教えを受けたと言います。そして、善人も悪人も分け隔てなく全ての人が救われる、お念仏の道があることを知ったのです。

今までの自力の教えを全て棄て、新しい他力の教えを受け入れる。

親鸞聖人29歳、法然聖人69歳のときでした。

聖人はその時のことを

建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦、雑業を棄てて本願に帰す(『浄土真宗聖典 註釈版』P.472、『教行信証』「化身土巻」

と述べられています。

流罪

法然聖人の元で過ごす日々は、非常に充実したものであったと思います。

ですが、先ほども述べましたように、当時の法然聖人の教えは、決して一般的なものではなく、伝統的な教えから大きくそれたものでした。つまり、様々な仏道修行があるなかで、法然聖人は、阿弥陀仏が念仏という行を選ばれたのだと主張したのです。言い換えれば、他の行は選び捨てたのだと主張したのです。

こう言われると、他の教団は面白いはずがありません。

しばらく後、法然聖人は、他の仏教者から、「邪教を広める者」として弾圧されます。ついに比叡山は、法然教団の解散と念仏停止を決議し、朝廷を通じ、それを実現することになります。

そして、親鸞聖人35歳の時、ついに朝廷の命令により念仏は停止され、法然教団は解散させられてしまいます。

さらに、法然聖人は四国、親鸞聖人は越後へ罪人として流罪になってしまいます。
親鸞聖人はこのことの不当性を主張されますが、聖人は流罪を受け入れることになります。

非常に悔しい気持ちだったことでしょう。ですが、聖人は気持ちを切り替え、まだ念仏のことを知らない地方の人々に教えを伝えられる機会になると考えられました。また、この念仏弾圧は、釈尊がすでに予言されていたことでしたので、ますます釈尊の言葉への確信が深まったとのことです。

5年後、聖人は流罪を許されますが、そのまま約20年もの間、越後から関東へと布教の生活を送られました。その間、多くの念仏集団が生れ交流も盛んだったようです。その後親鸞聖人は、62、3歳のころ、京都へ帰ることになります。この理由は、定かではありません。『顕浄土真実教行証文類』を完成させるためだと言われていますが、諸説あります。

息子・義絶(ぜんらん)の義絶

そして京都に帰られてからは、様々な著作を執筆されました。『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』、『尊号真像銘文』、『一念多念文意』などです。

そんな晩年、聖人84歳のとき、大きな事件が起こります。

それは、実の息子である、慈信房善鸞(じしんぼう ぜんらん)の義絶です。つまり、親子の縁を切ったのです。何があったのでしょうか。

聖人が京都に帰った後、関東の教団の教義への疑問に対しては、手紙でやり取りをしていました。しかしながら、手紙では対応しきれなくなり、息子の善鸞房を関東につかわせたのです。ところが、関東の地で思うように指導力を発揮できず、誰も善鸞房の話を真剣に聞こうとしませんでした。そんなどうしようもない歯がゆさから、ついに「私は本当の教えを父・親鸞から、こっそり授かったのだ」と嘘をついてしまいます。そうすると、周りの反応が変わります。本当の教えとは何か。人が善鸞房の元に集い、嘘は取り返しのつかないものになってしまいます。

ついには、善鸞房は、聖人の教えとは全く異なる教えを説き、関東の門弟たちに大きな混乱を起こさせました。

そして親鸞聖人は、善鸞房を義絶することを決断されたのです。
晩年に、実の息子との縁を切らねばならなかった聖人はどれ程のお心持だったのでしょう。聖人はこのような歌を残されています。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき

人間としての小さな慈悲さえも持たない身では、人々を救うことなどは思っても不可能です。阿弥陀如来のすくいの誓願の船がないならば、この迷いの生死の苦しみの海をどうして渡ることができましょうか。
浅井成海『聖典セミナー 三帖和讃Ⅲ 正像末和讃』(本願寺出版社、二〇〇四年)P.336

と、実の息子さえ救えなかった悲しみを歌われたのかもしれませんね。

ご往生

その数年後、親鸞聖人は体の不調を訴えるようになります。それからは、世間のことは口にせず、ただただ、仏様のご恩へ感謝し、お念仏を絶えることなく称(とな)えておられました。そして1263年1月16日(旧暦・弘長2年 11月28日)の正午ごろ、頭を北、顔を西、右脇を下に、ついにお念仏の声が絶え、ご往生されました。弟や娘、息子、数名の門弟たちに見守られながら、90歳でのご往生でした。

聖人ご往生の後、その遺骨は、聖人を慕う門弟たちの手により大谷の地に葬り廟堂を建て聖人を偲ばれました。それが、大谷本廟であり、現在の本願寺の基礎となりました。

以上が、非常に簡単にではありますが、親鸞聖人のご生涯です。
もう少し詳しくお知りになりたい方は、各種書籍をお読みください。

参考文献

村上速水『親鸞教義とその背景』(永田文昌堂、1987年)
小池秀章『高校生からの仏教入門』(本願寺出版 2011年)
浄土真宗必携編集委員会『み教えと歩む』(本願寺出版 2012年)
浅井成海『聖典セミナー 三帖和讃Ⅲ 正像末和讃』(本願寺出版社、2004年)
浄土真宗教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、1988年)