記事の結論と要約
この記事は、少々長いですので、
見出しや大きな文字だけ拾い読みすれば、大意は掴めるようになっています。
【記事の結論】
「悪人正機」とは、「悪人(=自らの力で迷いを離れることができない人)こそが、正機(阿弥陀様の すくい のめあて)である」ということ。
【記事の要約】
浄土真宗の「悪人正機」とは、自力で迷いから抜け出せない「悪人」こそが、阿弥陀仏の救いの第一の目当てであるという教えです。親鸞聖人の言う「悪人」とは法律の話ではなく、日常の些細な出来事でさえも自己中心的に物事を判断し、他者に勝手な期待を押し付けてしまう「煩悩」にとらわれた私たち自身のことです。阿弥陀仏の慈悲は、すべての人を平等に降り注がれるからこそ、重い煩悩の病に苦しむ私たちを放っておけず、真っ先に救おうとされます。しかし、「悪人が救われるなら悪を行ってもよい」と考えるのは誤解です。阿弥陀仏の救いに出遇えば、自らの悪を深く恥じる心が生まれ、自然と悪を慎む生き方へと変わっていくのです。
以下、詳しく見ていきましょう。
誰が仏様のすくいの目当てなのか?
浄土真宗の中心的な教えの一つに悪人正機というものがあります。
これは浄土真宗の「すくい」[1]が、誰を一番の目当てにしているのかという話です。
親鸞聖人の言う悪人とは、法律の話ではなく、「自らの力で迷いを離れることができない人」のことで、正機とは「めあて・対象」のことです。つまり、悪人正機とは、「自らの力で迷いを離れることができない人 こそが、阿弥陀様の すくい のめあてである」ということです。間違っても、悪いことをしたほうが救ってもらえるという教えではありません。
さらに、詳しく見ていきましょう。
悪人正機について
善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
『歎異抄』「第三条」[2]
(筆者意訳:善人でさえ往生できるのですから、まして悪人ならなおのこと往生出来ます。)
と言う言葉で示されることで有名です。
一部、国語か歴史の教科書にも載っているそうなので、お聞きになったことのある方もいるでしょう。
この言葉を読むと、「悪人がすくわれる?」「善人がすくわれるの間違いでは?」と思われる方も多いと思います。
実は、私も最初はそう思いました。
ですが、よくよく聞いてみると、なるほどと、非常に納得がいきました。
悪人とは誰か?
「あなたは悪人ですか?」
その様に聞くとほとんどの人は、「私は悪人ではありません」と答えるでしょう。それでは、「あなたは自分中心に物事を考えることは、ありますか?」と聞くと、胸を張って No と答えることが出来る人はいるでしょうか。
実は親鸞聖人の言う「悪人」というのは、一般的な感覚の悪いことをする人、いいことをする人という基準ではありません。親鸞聖人の言う「悪」とは、仏教的な「悪」[3]ということなのです。つまり、煩悩に捉われているということです。煩悩とは、 心身を煩わせ、悩ませる精神作用の総称のことですが、もっと簡単に言ってしまえば、自己中心的な考えに執着してしまうことです。そして悪人とは、自らの力で煩悩を捨てきることが出来ない人のことを言います。 つまり、自己中心の考えの中にあって、そこから抜け出せない人のことを悪人と表現したのです。
そして、自分自身はそれに気が付かないものです。本当に周りが見えない様な真っ暗な場所では、自分の手や足が見えないのと同じです。
私たちが自分の悪(煩悩)に本当に気づかされるのは、まったく煩悩のない視点に触れた時です。つまり、阿弥陀仏の真実の光(仏様の教え)に照らされた時です。
地獄こそが唯一の居場所
親鸞聖人は、そのことを非常に強く表現され、ご自身のことを悪人として捉え、極重の悪人
[4]や煩悩成就の凡夫
[5]と表現されました。凡夫とは悪人と同じく、煩悩にとらわれて、自らの力で迷いを離れることができない人を指します。歎異抄には「地獄は一定すみかぞかし」[6]とあり「地獄こそが唯一の居場所である(筆者意訳)」とまで表現されました。以前、人間観の話の中でも申し上げましたように、親鸞聖人は20年間の修行時代、どれだけ努力しても、煩悩を落としきることは出来ないと実感されました。(参考:親鸞聖人のご生涯)親鸞聖人はそれだけの時間をかけ、自分自身の煩悩を深く正直に見つめられたのです。
そして大切なのが、この言葉は、単なる自己卑下ではありません。
「自分の力には何一つ期待できないくらい努力したからこそ、阿弥陀様にお任せするしかない」という境地の現れでもあるのです。
悪人とは、あなた自身
これは、親鸞聖人だけに関係することではありません。普段、仏教とは関係のない生活をしている方であっても、煩悩が普段の生活を邪魔してくるということはあります。煩悩が原因で誤った思考をし、誤った行動を取り、誤った結果を生んでしまいます。
例えば、私ならメールの返事が3日くらいないと、イライラというか、もやもやしてしまいます。当然、1日くらい経てば、目にはしているだろう。少し考えても返信があってもいいだろう。と思ってしまいます。また、先日100円ショップで買い物をしたとき、いつもなら、「ありがとうございました」と言われる店で、たまたま無言で商品とレシートを渡され、少しもやもやしました。
これらもやはり、私を中心に物事を判断してしまうこと、煩悩なのです。相手は「私にとって都合が良い考えをする、行動をとる」と勝手に思い込み、期待を押し付けているということです。考えてみれば、私も返信が大幅に遅れる時、ひどい時は、忘れて結果的に無視してしまうときもあれば、挨拶に、いい加減な返事をしてしまう時もあるのです。たまたま何かの事情が相手にあれば、私にとってちょっと嫌だなと思える反応になる事もあるのです。それを「〜〜は、いつでも〜〜すべきだ」という勝手な期待を押し付けるのが、煩悩なのです。
私を中心にして相手を見てしまう。煩悩のせいで、相手をありのまま見ることが出来ず、勝手に相手の行動を自分に都合で捉え、判断してしまっているのです。
そしてそれらはほんの一例で、これを読んでいる皆さんも心のどこかで、生きにくさや、不自由さを感じながら生きているのではないでしょうか。私もその一人です。そのように煩悩から離れることができない人々を悪人と表現されたのです。それは、この私自身でありますし、あなた自身にもあてはまることではないでしょうか。ですので、この悪人正機の話というのは、決して他人ごとではないのです。自分自身のことなのです。
悪人こそが救われる教え
ここまで来るとなんとなく分かって来るかもしれません。悪人こそが救われるという教えは、煩悩から離れることができない「私たちのため」にある教えなのです。つまり阿弥陀様は、自分の力では煩悩から離れることができない人、まさに すくい を必要としている人、そういった人に、まずお心を向けられているのです。
このような言葉があります。
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
『涅槃経』引文[7]
内容
例えば、あるものに七人の子どもがいたとします。その中の一人が病になったとすれば、親の心は平等ではあるけれども、その病気になった子どもに、特に心をむけるようなものである。如来様も、また同じである。(筆者意訳)
七人が皆同じように大切だからこそ、一人が病気になってしまったら、その子をそのままにしておけないのです。阿弥陀様はすべての生きる存在を同じように悟りを開かせたいとお心を向けて下さっています。その すくい から、一人もこぼしはしないのです。だからこそ、自分ではどうしようもない凡夫を放っておけないと、親鸞聖人は受け止められたのです。
このことをよく表すのが、冒頭であげました、歎異抄の一節なのです。
善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
『歎異抄』「第三条」[8]
(筆者意訳:善人でさえ往生できるのですから、まして悪人ならなおのこと往生出来ます。)
毒は飲むものではない
このような悪人正機ですが、1つ注意点があります。
悪人正機の話を聴くと、「悪いことをしたほうがいい」と誤解される方がいるかもしれません。ですが、そうではありません。「悪人であることが救いの原因になる」わけではないのです。
親鸞聖人は、「薬があるからといって、毒を飲むようなことをしてはいけない」と仰っています。
この誤解は、親鸞聖人の時代にもありました。そのとき、親鸞聖人はこうお示しになられました。
常陸(ひたち)の念仏者たちに宛てたお手紙の中にこうあります。
薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。
『親鸞聖人御消息』[9]
また、その内容を『歎異抄』でも「薬あればとて、毒をこのむべからず」[10]と表現され、戒められています。
つまり、自分の力ではどうにもならない人(悪人)が、仏様を頼む(お任せする)ことこそが大切だということです。悪そのものが往生の障害となることは決してないのですが、だからといって悪行をなすということは、厳しく非難されたのです。
本当の すくい に出遇ったなら、自分の醜さや悪を深く恥じる心(慚愧)が生まれ、むしろ自然と悪を慎もうとする生き方に変わるものです。阿弥陀様のお心は、悪を行うための言い訳ではなく、悪をやめようとしても、やめれない私を悲しみ哀れみ、包み込むものだからです。[11]
まとめ
浄土真宗の すくい は、誰を一番の目当てにしているのか。それは自分では煩悩を捨てきることができない私たち凡夫です。阿弥陀様の慈悲は、そういったどうしようもない私たちに対してこそ、向けられているのです。
注記と参考文献リスト
注記
(1) 「すくい」は、漢字で書けば「救い」ですが、ここではあえて、平仮名で表記しました。理由は、仏様の すくい という言葉の中に、「拯済(じょうさい)」=「溺れている人を両手で抱え上げ(掬い上げ)、安全で安心なお浄土へお連れくださる」という意味も含むからです。
(2) 教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)833頁
(3) 悪:現世や来世において苦の報いを招く行為、悪業のこと。
、『浄土真宗辞典』(本願寺出版社、二〇一三年)3頁
(4) 『顕浄土真実教行証文類』「行文類」(「正信偈」):教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)207頁
(5) 『顕浄土真実教行証文類』「証文類」:(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)307頁
(6) 『歎異抄』「第二条」:(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)833頁
(7) 『涅槃経』(教行信証に引用『顕浄土真実教行証文類』「信文類」)(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)279頁
この例えに関して村上速水氏は
七人の子供に平等の慈悲が注がれるというとき、その中に能力に不足する子があれば、そこに特に愛情が注がれる。つまり悪人正機とは、平等の慈悲ということと同じことなのである。平等であるからこそ、悪人が正機となり正客となるのである。
村上速水『親鸞教義の誤解と理解』永田文昌堂、1984年(六刷、2006年)、61頁
と指摘。
(8) 『歎異抄』「第三条」:教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)833頁
(9)「親鸞聖人御消息」: 教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)739頁
(10)『歎異抄』「第十三条」:教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)843頁
さらに、『末灯鈔』では、
煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、くちにもいふまじきことをもゆるし、こころにもおおふまじきことをもをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひるもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし
『末灯鈔』:教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典 註釈版』第二版(本願寺出版社、二〇〇四年)739頁
とも表現されている。
(11)村上速水氏は
悪人である事の自覚ということは、悪を否定することでありながら、悪から脱却することのできない自覚であることに外ならない。悪を悪と知り、したがって悪を犯してはならぬと知りながら、しかも悪を犯さずには生きてゆけない、それが聖人の宿業とか罪業という意味ではなかったか。そういう、どうにもならぬものが、どうにもならぬまますくわれてゆくのが本願の救いなのである。
村上速水『親鸞教義の誤解と理解』永田文昌堂、1984年(六刷、2006年)、66頁
と指摘。
参考文献
- 村上速水『親鸞教義とその背景』永田文昌堂、1987年(第20刷、2011年)
- 梯實圓『聖典セミナー「浄土三部経Ⅱ 観無量寿経」』本願寺出版社、2003年(第4刷、2016年)
- 村上速水『親鸞教義の誤解と理解』永田文昌堂、1984年
- 浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室(聖典編纂担当)編『浄土真宗辞典』(本願寺出版社、二〇一三年)

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